変化する、という事

今朝はまた忘れた、体重測るの。多分、いや絶対、変化はない。なにせ、何も自分の行動が変化していないのだから。

さっき、養老孟司先生のYouTubeを見てた。講演を聞いてた。変化しない、退屈だと思っている若者の方、たくさんいると思うけど、世界は日々変化している、あなた自身が変化してないだけだ、と。養老孟司先生は少し前に病院で検査をして、肺がんかもしれないと言われ、それじゃ大好きな虫取りにもう行けないじゃないか、せっかくいろいろと辛抱して仕事をしてきたのに、と思ったそうだ。もし、余命の宣告をされ、それが事実だとしたら、これからやること、見ること、聞くことは、今までと全く違ってくる、それはある情報、つまり余命の宣告が、あなたを変えたということだと。毎年見ている桜を、余命の宣告があった自分が今年見たら、この桜は来年は見れないのか、こんなに綺麗な桜だったのかと、今までとは全く違う感覚になると。

命の危険、死の予感が身近に感じられない僕からすると、それくらい重大な出来事でも起こらない限り、自分のこの退屈さ?変化のなさから脱却することはできないのかもしれない。そう言えば、前にバイトしてた時の友達から、

君は、結婚でもしないと、就職しようとか人生変化させようとは思わないだろうね。

と言い切られた。そこで僕は否定もしたし、そんなふうに思われるのも心外だったし、やろうと思えばやれるんだと思っていた。だけど、今こうして生きてきて、結果はその通りだった。

今の奥さんと結婚する為に、といえば語弊があるかもしれないが、きちんと働いてないやつと結婚なんてしてもらえないだろうと思って、就活に励んだ。そして採用が決まり、なんとか仕事にありつけた。それまで全く社会人経験のない僕を、今の社長が採用してくれた。これを逃したら、次はいつになるやらと思って、彼女、つまりは今の奥さんに相談もせず、入社を決めた。

付き合ってる女性の為に、その女性と結婚する為に自分の環境を変化させた僕。その結果、その環境に今はどっぷりと浸かっていて、さほど変化も出来ず、自分なりの成長も感じられず、漠然とした会社への不安や不満、そして自分への絶望に似たものを心に感じながら、日々生活している。子供も生まれて、親としての絶対的な責任感でも芽生えるかと思ったら、無いわけではないが、そこまで強いものでもないと自分では思っている。もちろん大切だし、失いたくないのだけど、それを守る為に今やっていることでは色々足りないということはわかっている。何か変わるには、僕以外の要因ではなく、僕自身に関わることでないと、僕自身が変わらないのだろう。そしてそれが起きないと変わらないと思っている自分は、本当に他力本願だ。何かしらの力が、僕に加わらないと変わらない、変われない。僕自身からみなぎるエネルギーではなく、僕以外の、何かしらからのエネルギー。こんな様子では僕はいつまで経っても今の僕だ。

やっぱりあれだ、いろんな人と関わり合ったり、話を聞いたりして、僕が周りと比較してとても劣っていることや優れていること、良いところ、悪いところをしっかりと認識したり、何か新しい考え方や人生の歩み方を知ったり、今の僕の感覚では巡り合ったり辿り着いたりしない物や場所に触れられるような、そんな出会いがあるように行動したり。自分磨きも必要だし、自分一人ではなく、他の人、誰かにも力を借りて変わっていけるようになりたい。

僕は仕事もそうだけど、腰が重く、動きたくない場面が多すぎる。本当は考えて動きたいと思っていることもあるのに、そう行動したら、あの人になんて言われるだろう、どう思われるだろう、と気にしては足が止まってしまう。

バスケではそんな事ないのにな。言われても思われてもいいや、だって僕にできることはこれだから、と自分の軸になるようなものがあるからだろうな。

人生や仕事ではそういう考え、思いは今の僕には出てこない。だからしんどいし、何も成果をあげられていないのだろう。

今日は何書こうかなと思ってて、これ書こうって思ってたことはあったはずなんだけど、思い出せず、とりあえず書き始めたら、こんな内容になった。

上の子は週末ディズニーランドに行くことを知ってるから、待ち遠しくて仕方がないみたい。可愛いなぁ、みんなで楽しんでこようね。暑いだろうから、気をつけて過ごそうね。

こんなお父さんでも、ちゃんとお父さんと思ってもらえているだろうか。

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