早速、土日をしっかり休んでしまった。
その後に書いてみたものの、何だかわからないがアップロードできない状況になって、時間が経ってしまった。
毎日更新なんて夢のまた夢か。私のだらしなさが顕著にあらわれた、参ったもんだ。
今回は、自己紹介なぞ、やってみようと。なんと名乗ろうか、うーん、はい、私は
やーさん
と言います。と言うか、呼ばれています。
年齢は41歳、後厄。厄払いは人生で一度もしたことがない。
妻、4歳の娘、1歳の娘の四人家族。
田舎は山形県、さくらんぼもお米もお蕎麦もラーメンもうまい、あとお肉ね。芋煮も最高です。
実家には父ちゃん、母ちゃん、兄貴がいて、私、こちらもまた四人家族。
小さい頃から身長は大きい方で、保育園や小中高校でも一番後ろから二番目くらいだった。とは言え、兄貴は私よりも大きいし、従兄弟連中も大きい。
同い年のなかでは大きい方だったけど、女の子に間違えられるくらい可愛かったらしい。あらー、可愛いお嬢ちゃんねーって道ゆく人から声をかけられる事もしばしば、だったらしい。
そんな可愛らしい子供がいつの日から可愛くなくなったのやら、兄貴からは本当にブサイクになったなー、といつも笑われている。
スポーツは得意ではなかった、足も早くないし、運動神経も良くない。マット運動や跳び箱も苦手、鉄棒なんて逆上がりも出来なかったし、プールも大嫌い、顔をつけるのも一苦労、小学校2年生の時の担任の先生からは、プールの補習みたいなのに残されて、浅いプールにイヤイヤながらもぶん投げられて、水に顔をつけることに無理やり成功させられた。家族で海に行った時も、ゴムボートに乗ってたら、波に飲まれてゴムボートごとひっくり返り、溺れかけた事もあり、ますます水が嫌いになった。結局プールの授業で、泳げない生徒は赤い帽子なんだけど、あるタイミングまで、数少ない赤帽の精鋭だった。12.5m泳げると白帽になるのだけど、クロールの格好をして泳ぎ、実は息継ぎなどできていない、息継ぎなしでゴールまで辿り着くという必殺技で白帽をゲット。さらに水泳大会では25mも息継ぎしてるフリ、クロールで泳ぎ切り、息継ぎしていないもんだから、死ぬ気で25m泳いだもんだから、泳げない赤帽あがりの私からは想像できないスピードで泳ぐ姿に先生も度肝を抜かれたほど。そりゃそうだ、命懸けだもの。夏はプール嫌い、山形県なら雪国だから、スキーは、、、というのも苦手だった。なんせ、スピードが出るのが怖い。直滑降で止まり方もよくわからない状態で滑り、派手に転び、膝を捻挫すると言う、なんとも聞き馴染みのない場所を捻ってしまった事もある。スノボーもやったが、人生初滑りで転んで肩脱臼。バスケで脱臼癖がついていたせいではあるので、仕方のないことのようにも思うが、1日リフト券を買って一発目で脱臼、緊急のスノーモービルの乗せてもらって、医務室へ。あっという間に関節をポコッと入れてもらって、あとはスキー場の食堂みたいなところで、ぬくぬくとみんなの帰りを待つことに。と言うことが2回連続で起こる。スノボーしに行ってるのか、肩を脱臼しに行ってるのか。1日リフト券を買って、プラスでお医者さんに脱臼を治してもらうお金まで払ってくるのだから、良いお客さんだろう。これだけ運動ができない私は、なぜかバスケに熱中する。
兄貴も行っていた野球少年団に入って、顔面でノックのボールを受けてすぐに辞め、サッカー少年団には、すでに上手い同級生を見て入ることすら諦め、でもキャプテン翼が好きだったからボールは買ってもらったのだけど、足で蹴るドリブルではなく、バスケのドリブルをしていた。小学校、ポートボールの授業では背が大きかったから、ゴールの役割、もしくはゴールの前にいる邪魔する人ばかりだったのだけど、バスケになったらドリブルの練習をしていたことが役立ち、みんなのお手本に選ばれて、みんなから拍手され、先生にも褒められて良い気になったのが始まり。
中学でバスケ部に入った。中学時代の先輩には到底太刀打ちできないレベルのドリブル、いやいや同級生にすら勝てないレベルだった。一年生大会なんぞが開催された。当時スラムダンクやバルセロナオリンピックのドリームチーム、少しずつNBAが知られるようになったのもあってか、部員数は20人近くいた。練習しててもスタメンには入れず、セカンドチームだった。ところが、大会前日にスタメンのメンバー、しかも背の大きいメンバーが怪我で抜けることになり、代わりに僕がスタメンに選ばれた。ここから、私のバスケ人生は大きく変わっていく。そこからは一度とスタメンから外れることなく、むしろ元々スタメンで出る予定だったメンバーは、ちょっとヤンチャな子だったから、練習にもあまり来なくなったりして、私との差はどんどん開いていった。地区大会の新人戦の決勝戦では私が活躍して、同じ地区の中学校から選抜され、県選抜の練習にも呼ばれた。県選抜はとんでもないレベルで、早くも自分の限界を知った。
高校はバスケの為に少し遠いところへ通った。地獄のような練習。毎朝大好きなすじこおにぎりを食べて電車通学し、一年の夏合宿は高血圧で休んだ、ちなみに上160、下120とか、危ない状況だったのは、今となっては笑い話。高校は強豪だった、県でベスト4常連なほど。そこでスタメンで頑張って、副キャプテンもやった。もう大学では部活はいいや、死ぬほど練習したから、これ以上やりたくない、もはや自分がいくら頑張っても敵わない相手がいることも知ったから。運動神経が悪い私はいくら頑張ってもダンクなんて到底できないし、ドリブルをして早く走ることもできない、できたのはちょっとした器用さをアピールすることぐらい。私の身長、体格でも高く飛ぶ人、早く走る人、ドリブルが上手い人はいくらでもいることはバスケをすればするほど、わかっていった。だから、あとは楽しくバスケすることに決めた。努力して、もっともっとバスケ上手くなるんだ!ってことから逃げた。だけど、バスケをやめることはしない、私にはバスケくらいしか、人にアピールすることがなかったから。大学ではサークルに入って、のほほんとバスケをした。
大学を卒業、就活はしなかった、周りの友達は元々志が高く、やろうとしている仕事も明確だった。福祉系の仕事に続々と就職を決めていく。私はそんな目的もなく、ただ大学に入っただけ。親は大学に行けなかったから、せめて私には行って欲しいと思ってくれて、お金を出してくれた。ありがたい。友達はたくさん出来たが、それ以外将来のことやら目標やら、何も定まらず、卒業して、フリーターになった。学生のうちは仕送りをもらっていて、それに甘えて生活していたが、卒業して就職もしないのだから、せめて自分で稼がないと申し訳ないから、友達からカラオケ屋さんでそれなりに稼いでるって人がいることを聞き、そこで長年アルバイトをした。フリーターしながらも、大学の地元の友達とまたバスケをした。
当時付き合っていた彼女と一緒に住むために、大学からずっと住んでいた埼玉県から東京に引っ越した。ここで、バスケは一旦終わり。もう毎週のように埼玉に行って、なんて時間もお金もなかった。引っ越しても、彼女と一緒に住んでも就職はせず、フリーターのままだった。
その彼女からは将来が見えないと言われ、愛想を尽かされ、フラれた。それから少しして、アルバイトで知り合った人から、東京で草バスケしてるところを紹介され、またちらほらと行ってみることにした。時を同じくして、埼玉の友達が別のバスケチームを立ち上げて頑張ってるらしいと聞き、一度来てみてよーなんて誘われて、そっちも行ってみた。
どちらも決して強くない、上手ではない、ブランクがある私にとってはとてもちょうどいい環境。月に一回か二回、東京の方も埼玉の方も行くようになり、いつのまにか埼玉の方は毎週行くようなリズムになった、メンバーが同い年が多かったり、そのチームの中では自分が上手い方だったから居心地がよかったのだ。
東京の方も、男女ミックスで練習したり、大会に出たりしていて、妻とはそこで知り合った。その当時もまだフリーター、32歳くらいだったかしら。もちろん知り合った当時の妻はキチンと勤めていて、フリーターでいることが恥ずかしくなったし、その後付き合うことになってから、就職しないとまた彼女からの愛想を尽かされてしまうと思い、何とか就職した。スキルや経験が全くない32歳を拾ってくれて、何というラッキーだろう。
それからバスケも少しだけ、出来るだけ続けながら、仕事も辞めたくなることを何度も味わいながら、頑張ってきて、妻と結婚し、子供も授かり、今41歳を迎えている。
コロナのせいもあり、バスケはめっきり行けてないが、また様子を見て行けるようになればいいなぁ。いつ引退するか?いつ、辞めようか、と近頃頭をよぎったりする。やれる環境があり、体も動くうちはまだやりたい。大会なんかも出て、負けては悔しい思いもするし、試合に出る時間もかなり減ってきてこれも悔しいし、だけど、試合の後のみんなとの飲み会は楽しくて、無くしたくない時間の一つだ。
41歳、仕事はほどほどに(笑)、楽しいこと、やりたいことは出来るだけやっていきたいな。
今日の脳内BGM♪
くるり/東京
大学一年の時だったか、この曲を聴いたの。田舎から埼玉に出てきた私には、心にグッとくる歌詞とメロディで、今聞いてもグッと来て。
コメント