10月3日

せっかく何気なく昨日書いたものだから、途切れさせるのはもったいないと思い、今朝もアプリを開いて書いてみる。おはようございます、みなさん。木曜日ですね、あと二日、頑張って乗り切りたいものです。

今月は何かと忙しいというか、イベントが待ち受けている。下の子の保育園の運動会、そして僕の大学時代の友達との集まり、同窓会的なやつ。毎年集まってるから、とても楽しみにしている。僕が学生時代を過ごした熊谷に行ける日なので、あの頃の思い出に耽るには、これ以上のシチュエーションはないという感じだ。最近は会えば、あの時こうだったという、お決まりの思い出話から、仕事や子供の話題、そして健康についての話まで、あー、年取ったんだなぁ、という話題で持ちきりになる。そうか、みんな45歳になるんだもんなぁ、会えば大学時代のようなノリで時間が過ぎていくのだけど、あの頃のように朝までばか話して、そのまま講義に出たりしていたのと同じように、若さや体力で乗り切れるような状態ではない。衰え、老いには、勝てないですわ。

下の子の運動会も楽しみ、今は保育園で絶賛練習中みたい。去年から今の保育園に通い、初めての運動会だったけど、みんなに見られて緊張してる様子もなく、こちらに向かって手を振ったり、仲良しのお友達はあっちにいるよーと教えてくれたり、ニコニコでお遊戯やかけっこをしていた。上の子が保育園の時はコロナになる前の年なんかは、準備運動のラジオ体操から指を咥えて棒立ち。練習の様子なんかは毎日聞いていて、本人も気合入っていたようだけど、緊張しちゃったのか、動けなくなってしまったようだ。お遊戯の時にようやく少し動けるようになったけど、先生に何度も促されて、手を繋いで移動してた。子供によって、こんなにも違うものなんだ、と痛感した。けどね、他の子や兄弟や親戚の子供同士で比べても仕方ない、やはり性格や個性というものは必ずあるから、それを否定したりしないで、認めてあげたり、褒めてあげたり、支えてあげたりしないといけない。僕だって、苦手なことをやれ、なんでできないんだ、と言われても辛いだけだし、それをやり続けることにはとてもストレスを感じるし、もしもそんなことを強要されたら逃げ出したくなるだろう。

子供に対しての教育というか、接し方というか。時折悩むことがある、こういう接し方で、伝え方で、本人の自信や良いところを折ってしまったりしていないだろうか。逆に手を貸し過ぎて、1人でできること、やれることがたくさんあるのに、その機会を奪っていないだろうか。甘えてくることに対して、自分でやりなさい、と突き放すこともあれば、ヨシヨシと抱っこしてあげたり、何でも言うことを聞いてあげるタイミングもある。子供から見て、僕がやっていることに整合性が取れないから、僕が言っていること、やっていることは適当なんだ、日和見的なんだと思われていないだろうか。自分が親として、子供に教えなければいけないこと、伝えていかなければいけないこと、きちんとできているだろうか。子供は僕たち親に対して、安心感や信頼感を持ってくれているだろうか。

うーん、考えれば考えるほど、親としての自信がなくなっていく。とはいえ、僕だけではなく、お母さん、親戚、お友達やその家族、これから出会う先生や恋人、そして映画や漫画、本やゲームまで、いろんな人や文化、思想や環境に出会う。その中で本人の性格や人間性が形成される。僕ら親が全てを担うことはできないが、その土台となる、自分らしさのようなものをきちんと自分でも大切にできるようになってほしいし、その自分らしさを僕たち親がきちんと認めてあげて、あなたは素敵な人なんだよ、と抱きしめてあげて、親がいるから、大丈夫だと思ってもらえるように。

今朝は上の子は、学校行きたくない、疲れるから嫌だ、と言っていた。こないだお休みだったから、おばあちゃんと動物園まで出かけて、たくさん歩いてきたから、実際に体力的にしんどいのだろう。けど、もしかしたら、別の理由があるのではないか?もしやイジメや嫌がらせのようなことがあるのでは?と勘ぐるのだけど、普段の様子からはそこまでではないと見受けられるし、僕自身、小学校や中学校はよくズル休みをしたもんだ。実家は自営業だったから、家には親がいて、何があっても大丈夫だったのは、安心材料の一つだったし、親も僕に付きっきりで構うことはできないまでも、特に困るほどでもなかったのだろう。そう言う意味では、僕に取ってはとてもいい環境だった。

上の子は、どんな気持ちでいるのだろうか。いざ学校行ったら、楽しく過ごしてきました!ってなっていれば、それで充分なのだけど。

今日の一曲🎵

中村一義/新世界

タイトルとURLをコピーしました